BLOG by tdswordsworks

ACTIVATE MY MIND. Still Feb 4th 2004 -twitterに書ききれない雑感など-

2009年07月

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2009年2月号のクーリエジャポンに掲載されていた特集記事。
「まとめ」に書かれていた次の文章が印象的だった。


「悩みを抱えた日本の若者が自分探しに行くインドで、その国の若者が自殺をするという皮肉な現実が生まれている」



インドは世界でいちばん10代の自殺が多いといわれているらしい。
この背景としてこの記事が指摘をしているのは2点。
若者の問題と、学校の問題だ。


1点目。急激な経済成長で、幼くしてあまりに多くを与えられた子供は、
成長して挫折を経験した際にうまく対処できなくなるというのだ。
特に、ゲーテッド・コミュニティの子供たちにこの傾向が強い。

カルカッタにあるモダン高校の校長の指摘。
「どんな些細なことでも自分の要望は満たされるべきだ、と考える子供が増えています。
そして、これまで『ノー』と言われたことのない子供は、世間が彼らのニーズを
満たすことなど気にかけていない、という事実をなかなか認められないのです」


2点目。これは誇張もあるかもしれないが、記事からの抜粋。

「08年4月、ムンバイに住む12歳の女生徒が高速道路から線路に身を投げて自殺未遂を起こした。カンニングの現場を教師に見つかったことがその理由だ。両親が学校に呼び出され、本人は英語の試験を受けることができなかった。翌日には、一生懸命嘆願し誤ったにもかかわらず、他の科目の受験まで禁じられた。さらに悪いことに、彼女の命を救った人物が彼女を学校に連れて行くと、学校はけんもほろろに二人を追い返したのだという。インド連邦下院は現在、学校の試験システムを抜本的に見直すように訴えている。」



(「 」内の部分ほか、「COURRiER Japon」2009年2月号p.40-43より一部抜粋)

昨年の春に開催されていた、宮島氏の個展。

Art in You



考えてみれば、数値というのは、
正確で唯物的なようでも、実は非常に曖昧な性質をもっているのだ。



1と2の間に何があるのか
3.14は3と4の間のどこにあるのか。
5.00を5と同一視することは可能か。



そういうことにコンシャスなプロダクトデザインはカッコいいと思う。

他人の言うことを信じない。

これまで気づかなかったけど、一般と比較して、
俺のその偏執性は振り切れてるんじゃないかと思う。
そして、それがおれの行動やパフォーマンスに決定的な影響を与えていると思う。



第一、信じるってどういう事だろう。

相手の言葉が100%真実だとその場で証明する術は誰も持っていない。
信じるという行為は、自分で判断することを断念した上で成り立つ。
それができない俺は唯物論者、
つまり、客観的事実にしか納得できない人間なんだ。


徹底して、信じない。
そういえば俺、信じてるよ、って、
激励の目的以外で言ったことがないなぁ。



けれど、他人を信じられないことの弊害は多い。

判断に時間がかかり、切り替えが下手。
信じるに足る情報を常に探しているから、いつも注意が散漫。
自分の目的地を誰かの計画に委ねられないから、自分の思考の地平から離陸できない。

結果、おれの遂げる成果は卑小で陳腐だ。




人の言うことが信じられないのは、俺の育った境遇が強く影響している。

おれの父親は、キリスト教の教えにあることしか言わない人。
子供をしつけるときは勿論、日常会話さえ、ほとんどが聖書の一説の引用だ。
「イエス様はこう言ってるだろ?」

人間は万能じゃないから、失敗をするし、間違ったこともする。
それがキリスト教の教え、イコール親の教え。

宗教心はないけど、その考えには俺も感化されていて、
人間は、正しくないけど悪くない、愛すべき存在だと考えてる。

性善説と原罪論がうまく同居した博愛主義と言えば端的に言い当てているけど、
実情は、誰をも愛するけど誰をも信じないだけのこと。



さらに決定的な要因がひとつ。

自分が真実だと思っていることを真実だと思わない人間がいることを
小さな頃からわかっていた。
最も身近なはずの親が、自分とは異なる真実の中に生きる人間だったからだ。

人の数だけ真実がある。
だから他人の真実と自分の真実を混同することを、回避しなければいけないはずなんだ。

そんな風にして、決して無条件で相手の言葉を肯定することはせず、
すべての判断を自分で下し、すべての結論を自分の手で出してきた。



けれど、いよいよその限界を感じるようになった。

世界中の客観的事実をたくさん集めることへの憧れはあったけど、
考えていたほどの面白みがないし、ただ悲愴感に包まれるだけだった。

それよりは、可変的な「世界」や「真実」を前に、
それに対して何ができるかを考えたほうが、おもしろいし生産的だろう。


他人の言うことを信じなくてもいいのかもしれない。
これまで通り、それを認めるだけでいい。

ただ、もし遠くまで行きたいなら、
自分で判断すべきこととそれ以外を線で引いて分けて、
どうなってもいいことは、誰かに/流れに任せていいと思えるようにならないと。



大学生による麻薬売買とか集団暴行とかの事件が、最近多く明るみに出てるけれど、
ニュースに出てるのはだいたいMARCH以上。

それ以外の学生が事件を起こしても単に報道されないだけなのか、
あるいはほんとに難関大学に集中しているのか、
だとすれば、そういう大学の病巣の原因は?
挫折経験の少なさが万能感をもたらし、
確信的な犯罪に心を許す要因になっているとしたら?

と言ってみたところで、根拠は何もない。
情報ソースがないから、仮説にしかならない。
議論の武器を、何ひとつ持ち合わせていないのだ。



さがしている

こんな憔悴した
帰りみちには

寄りかかりたい
君の背中を


最近体調がよくなくて、
何か体にいい食材はないかと思って、
3個パックの納豆を買って納豆ご飯を食べてみた。


翌日、納豆の賞味期限そんなに長くないし、
納豆ご飯3連続も味気ないなと思って、
じゃあ今夜は卵かけ納豆ご飯にしよう♪と仕事中に決めて、
家に帰ってからコンビニに出かけようとしたそのとき、
流しに置いてあるレモンウォーターの空のペットボトルを見て、
あ、ついでにレモン水も買ってこようと決めたけれど、
部屋を出るときに下の階の部屋からカップルが出てきたのを見て、
同棲してるのかな、違うのかな、なんて考えたり、
コンビニに行く途中にある駐車場の地面のアスファルトに
雨よけのビニールつきの「無断駐車禁止」の張り紙が貼り付けられてるのを見て、
ここの駐車料金はいくらなんだろうと考えたり、
コンビニの扉の前ですれ違った男性がロンTを着ているのを見て、
この暑い中わざわざ長袖着なくていいのにと思ったり、
いざ買おうと思った卵が最低でも4個パックなのを見て少し買うのを躊躇したりした末に、
「袋は要りません」と言って得意げに会計を済ませた僕は、
レモン水のことなんてすっかり忘れて、
卵だけ手に持って部屋に戻ってしまったのだった。



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