なんかねぇ、最近いろいろありすぎて、
ちょっとどうでも良くなりかけてるんだよね。

でも俺ってすごくマジメで、
いろんなことの面倒を見てさ、
悪いこともしないし。
飲酒運転、万引き、絶対やらない。
エロ本読まないし、カンニングも絶対しない。
うそもめったに言わない。

俺がこんな性格に育った理由が、
昨日明快にわかったんだ。


昨日は上野の教会でクリスマス礼拝に出席。
そのあとキャロリングって言って街に出て讃美歌を歌うんだけど。
親がクリスチャンでさ、小学生の時まで毎週日曜教会に連れられて行ってた。
俺は、中学に入って部活が始まってからは
あまり行かなくなったんだけど、
クリスマス礼拝だけは、0歳の時から毎年必ず参加してるわけ。
別に俺は神なんて信じないし、
義理で行ってるわけでもない。
もう、教会で過ごすクリスマスイヴの雰囲気が体に染み付いてて、
当然のように今年も、15時過ぎにつくばを離れ、
教会でメリークリスマスを楽しんで、
午前1時前につくばに戻ってきた。

昨日、教会は静かで、とても落ち着いてて、
その澄んだ雰囲気が、
俺がキリスト教に対して無意識のうちに抱いてきた決定的な意思を、
キャンドルの上に浮かび上がらせた。

俺は、清い存在でありたいという思いが強いのだと。
マジメな親に育てられ、
教会の人たちのあたたかい心や、そのよどみない雰囲気に慣れ親しみ、
それに反発しながらもあこがれ、
多くの人のgood willに触れながらここまで来た。
清められることを求める意思の中にありながら成長し、
それを当然と思うことができていることが、今の俺の性格の根本にあるのだと。

俺がクリスチャンと違うのは、科学に対する絶対的な信頼、
いや、ちょっと違う、聖書が虚構であるという確信だけなんだ。

人はみな、正しく生きたいと思っているはずだ。
それがうまくいかないのは、いろんな原因があって、
だから犯罪があるんだけど(こんな書き方じゃ社会学者失格かも)、
俺は幸運にも幸せに育った。
それはキリスト教のおかげだと。


礼拝をしながらそう思ったんだ。
だから、昨日初めてキリストに感謝した。

俺はあんたの言うこと(つまり神の存在)は信じられないけど、
世間の人があんたの教えにすがる事で求めている身の浄化を、
俺はあんたから独り立ちして、後天的にできる限りの部分で守ろうと思うんだ。
そのためのバックグラウンドはあんたがくれた。
ありがとう。