最近ちょっと心配になることがあります。


社会人になったら、世の中のできごとについて深く考える時間って
確保できるのかなーと、思うようになりました。


時間はあるにはあるけれど、仕事で疲れてしまっていると、
どうしてもそういうことの優先順位が低くなっちゃうんじゃないかな。



ほんとは、そういうのもとても重要なことだと思います。

メディアを騒がすような大事件から、身の回りの小さなできごとまで、
とにかく社会を構成するいろんな要素に興味を持って、
そのできごとに自分なりの意味を見出す。

自分なりの意味を見出すことはつまり、
たとえ自分とは直接関係のないことでも、
あるいは社会的には何の価値のないようなことでも、
成長の材料となる「自分だけの価値」を作ることができるということです。






長崎市長が襲撃されて亡くなったことは、ほんとに残念です。



この事件について政治家やメディアは言及します。
「行政に対する暴力は許されない」
「選挙期間中に現職候補が死亡する異常事態」


一方で、事件発生直後に首相官邸が出した談話が
「市長の無事と原因解明を望む」というあまりにも簡素で
「主張」のない内容だったことに、批判が集まりました。

政治に携わる者には、政治家なりの事件への意味づけとして、
「テロに対する怒りと対決姿勢を明確に表現する」
ことが当然に期待されているのでしょう。


事件が起こった。
だからこの対応マニュアルに従って声明を出そう。

そういう流れ作業的な、「効率」追求の成果のような、
「意味付け」の入り込む余地のない執政が行われているのでしょう。




そんな受け身的なことをやっていても、ちっともおもしろくない。

事象に対して自分なりの意味を見出すことこそが、
人が生きる必然的な理由になるんじゃないでしょうか?

そうやって意味を与えることをしなければ、
世界のいろんなできごとは自分を素通りするだけ。
事件を知っていても、それは「無視」するのと同じことです。







長崎市長の棺が市庁舎へ運ばれるとき、
1000人の市民が沿道に立って見送ったと報道されています。


そのことにどんな意味を見出して、
自分の地図のどこに配置するか。

そんなことを繰り返すことで、意味の地図は詳しくなっていって、
自分の意味世界と現実の世界とが、リンクするようになるのだと思います。



市長の襲撃とオレの生活はゼンゼン関係がないけど、
それをつなげて考えることで、世界がどんどん拡がっていきます。

それから世界を「俯瞰」すれば、きっとエキサイティングなはずです。