世間が期待する行動に自分の考えが反するとき、
行動によって異議申し立てをすることは簡単だ。
今までだってずっとそうしてきた。
自分が生きやすいように、そういう「キャラ」を作ってきた。
でも。
そのやり方が通用したのは、政治とか芸術とか経済とか福祉とか、
つまり「社会のこと」だけなのかもしれないと思った。
難しいのは、他人の個人的な問題に対峙させられたときのこと。
一般的に「不幸」と見られる事態に置かれている他人に対する
世間が期待する同情それ自体には、価値はないのだということを、
昔のテレビドラマの名ゼリフは教えてくれる。
同情は自然に生まれてくる感情であるべきで、
求められて差し出すものではないと思う。
(僕は24時間テレビがだいきらいだ)
周りの誰かが悲しい目に遭ったとき、相手が僕に求めているのは、
世間が期待する行動と同じとは限らない。
むしろ、違うことの方が多いはずだ。
そうでなければ、仲間や家族や友人なんて要らない。
だから僕は、その問題に対する自分の自然な反応に任せて行動する。
つまり、同情するときもあれば軽蔑するときもある。
それによって、相手が幸せを取りもどすきっかけを、
10回に1回でも与えることができれば、
それで充分なんだから。
行動によって異議申し立てをすることは簡単だ。
今までだってずっとそうしてきた。
自分が生きやすいように、そういう「キャラ」を作ってきた。
でも。
そのやり方が通用したのは、政治とか芸術とか経済とか福祉とか、
つまり「社会のこと」だけなのかもしれないと思った。
難しいのは、他人の個人的な問題に対峙させられたときのこと。
一般的に「不幸」と見られる事態に置かれている他人に対する
世間が期待する同情それ自体には、価値はないのだということを、
昔のテレビドラマの名ゼリフは教えてくれる。
同情は自然に生まれてくる感情であるべきで、
求められて差し出すものではないと思う。
(僕は24時間テレビがだいきらいだ)
周りの誰かが悲しい目に遭ったとき、相手が僕に求めているのは、
世間が期待する行動と同じとは限らない。
むしろ、違うことの方が多いはずだ。
そうでなければ、仲間や家族や友人なんて要らない。
だから僕は、その問題に対する自分の自然な反応に任せて行動する。
つまり、同情するときもあれば軽蔑するときもある。
それによって、相手が幸せを取りもどすきっかけを、
10回に1回でも与えることができれば、
それで充分なんだから。