ということを最近考える。


読んでる新聞は日経だ。
親が読んでる毎日と並べて読むと、同じニュースの扱いの違いがおもしろい。

自分にとってどんな情報が重要なのか、
それによって読む新聞は変えるものだけど、

地方で起きた傷害事件の報道も、
異物混入も、大臣の辞任も、
トヨタの売上高も、第3のビールの販売競争も、
俺の生活に大きく関係するニュースって実はほとんどない。

最近では、前期高齢者医療制度の整備によって
健保組合に拠出する保険料が年間数千円上昇したことくらいか。
あと、衆院選や大統領選はさすがに根本を変えることなので重要だけど。



じゃあ、なんのために、ニュースを読んでるのか。
ひょっとしたら、これって娯楽なんじゃないか、とさえ思う。

勿論、一見して自分とは無関係なその話題が、自分やその周囲に
どういう影響を与えるのか、仮定して思考して出した推論をもとに
行動を起こす、あるいは意見を修正する、というのは重要だ。

けどそれって、ファッション誌を見て、
持っている服や靴や鞄と照らし合わせて何を買うか決めるのと、
何が違うというのだろう?


発信者の立場も目的も前提さえも異なる雑多な情報に日々触れる中で、
フィクションとノンフィクションの境が曖昧になっているように、
娯楽と必要の境さえ曖昧になっている、消費に溺れかけの自分がいる。


もっと効率的に、有用な情報を得られるように熟練してくれば、
消費を超えて、知的生産の材料にできるんだろうけど、

生産にほとんどつなげていない今の僕にとって、
ニュースは娯楽以上の価値を持たないと思う。

とは言え、劇場政治と言われたように政治さえ娯楽になるのだから、
娯楽が世論を決め、社会を動かすことだってある。でもそれは妥当なのか?

俺は、そこから脱したい。