他人の言うことを信じない。

これまで気づかなかったけど、一般と比較して、
俺のその偏執性は振り切れてるんじゃないかと思う。
そして、それがおれの行動やパフォーマンスに決定的な影響を与えていると思う。



第一、信じるってどういう事だろう。

相手の言葉が100%真実だとその場で証明する術は誰も持っていない。
信じるという行為は、自分で判断することを断念した上で成り立つ。
それができない俺は唯物論者、
つまり、客観的事実にしか納得できない人間なんだ。


徹底して、信じない。
そういえば俺、信じてるよ、って、
激励の目的以外で言ったことがないなぁ。



けれど、他人を信じられないことの弊害は多い。

判断に時間がかかり、切り替えが下手。
信じるに足る情報を常に探しているから、いつも注意が散漫。
自分の目的地を誰かの計画に委ねられないから、自分の思考の地平から離陸できない。

結果、おれの遂げる成果は卑小で陳腐だ。




人の言うことが信じられないのは、俺の育った境遇が強く影響している。

おれの父親は、キリスト教の教えにあることしか言わない人。
子供をしつけるときは勿論、日常会話さえ、ほとんどが聖書の一説の引用だ。
「イエス様はこう言ってるだろ?」

人間は万能じゃないから、失敗をするし、間違ったこともする。
それがキリスト教の教え、イコール親の教え。

宗教心はないけど、その考えには俺も感化されていて、
人間は、正しくないけど悪くない、愛すべき存在だと考えてる。

性善説と原罪論がうまく同居した博愛主義と言えば端的に言い当てているけど、
実情は、誰をも愛するけど誰をも信じないだけのこと。



さらに決定的な要因がひとつ。

自分が真実だと思っていることを真実だと思わない人間がいることを
小さな頃からわかっていた。
最も身近なはずの親が、自分とは異なる真実の中に生きる人間だったからだ。

人の数だけ真実がある。
だから他人の真実と自分の真実を混同することを、回避しなければいけないはずなんだ。

そんな風にして、決して無条件で相手の言葉を肯定することはせず、
すべての判断を自分で下し、すべての結論を自分の手で出してきた。



けれど、いよいよその限界を感じるようになった。

世界中の客観的事実をたくさん集めることへの憧れはあったけど、
考えていたほどの面白みがないし、ただ悲愴感に包まれるだけだった。

それよりは、可変的な「世界」や「真実」を前に、
それに対して何ができるかを考えたほうが、おもしろいし生産的だろう。


他人の言うことを信じなくてもいいのかもしれない。
これまで通り、それを認めるだけでいい。

ただ、もし遠くまで行きたいなら、
自分で判断すべきこととそれ以外を線で引いて分けて、
どうなってもいいことは、誰かに/流れに任せていいと思えるようにならないと。