特定のモードがメディアにおいて、流行っている、受容されている、と報道されることは、メディアがそう判断している、もしくは判断したフリをしているという意味でしかない。今やポストモダンの状況下、メッセージの意味が社会全体で共有されることはない。(曲がりなりにもそれが共有されたと大衆の間に認識が広まった最後の例が「世界にひとつだけの花」であろう。)メディアは、本当はその必要はないのだが、多数意見に基づいて報道するというスタンスを取る。ここに、流行っている、受容されているモードを載せなければならない、という宿命がある。しかし、ポストモダンが深く根付いたこの状況下ではメディアに怠慢があると言及せざるを得ない。それは、記号の意味を説明していないということである。何故そうなるかと言えば、ポストモダンの前は、その説明の必要がなかったからであり、編集責任者が未だにその説明の必要性に気づかないでいるからだ。CDが売れなくなって、みんなで歌える歌がなくなって、という現状をただ嘆く中年は、多感な青春時代をポストモダンの状況下で過ごした僕らとは、記号は流通できるかという命題に対する回答が決定的に異なるのではないだろうか。