BLOG by tdswordsworks

ACTIVATE MY MIND. Still Feb 4th 2004 -twitterに書ききれない雑感など-

カテゴリ: 文化・芸術・都市

自転車で蔵前橋通りを西端まで。トーキョーワンダーサイト本郷。
mamoru氏の"「THE WAY I HEAR, B.S.LYMAN」より第四章「19 June, 1874」"がよかったのです。
明治の調査隊員の手記を譜面台に置いて「想像」するだけの作品ですが、
湿原の匂い、うねる川のせせらぎ、炭塊の黒い光がその場に存在するようです。

THE WAY I HEAR, B.S.LYMAN 第四章 独想曲「19 June, 1874」

今年も瀬戸内海に遊びに行きたいと考えているのですが、
昨年の瀬戸内国際芸術祭で最も強く印象に残っているのがこれです。

板持廃村再生プロジェクト

「数年前に人口ゼロとなった板持集落跡を覆う雑草や竹林を除去し、廃村の姿を提示する。」
(公式ガイドブックより)

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この集落跡がある高見島は、人口43人の超過疎の島。その中でも板持集落跡は、島唯一の港から歩いて20分くらいかかる場所にあります。僕は集落跡までの舗装路を「この道はどんな人たちのためのものだったんだろうか。生活道路のように見えるけど、もはや誰の帰り道にもなりえないんだよな」なんてことを思ったりしながら歩いていきました。道沿いには電線や電灯があったのですが、もう電気は通ってないかもしれない。たとえ道の途中が土砂崩れとかで塞がれても、誰も気づかないし復旧作業も行われないだろうな、などとですね。


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何もない場所へずんずんと歩みを進める僕の行為は、意味がなく、同時にアートそのものでした。


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集落跡は、勾配のややきつい丘の中腹に位置していました。麓からすでに茂みに覆われていましたが、このプロジェクトによって来場者が通れるように草刈りと通路の補修が施されていました。


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人の住まなくなってしまった集落に遺された古井戸や門構えを目にすると、初めのうちは寂寥感とでも言うべきものがこみ上げてくるのですが、徐々にそういう感傷的な表現では済まされないぞと感じるようになっていきます。


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集落跡の最も奥までは特にキツい階段を辿って行きます。
居合わせた他の来場者が「こんなに歩かせておいて何もないのかよ」ってボヤいていて、おいおいそれなら来なきゃいいのに、って思ったんですけどね。このプロジェクトは理解されにくいとは思います。


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5月に増田元総務相が座長を務める「日本創成会議」が発表した衝撃的な試算が、特に限界集落をいくつも抱えるような地方自治体を中心に波紋を広げています。

2040年、896市町村が消滅!? 若年女性流出で、日本創成会議が試算発表

この板持集落跡というのは、まさにその、人の営みの消滅した後に残る土地の姿を提示しているのです。

そもそもこの瀬戸内国際芸術祭自体、過疎化にあえぐ地方の活性化の起爆剤として企画されて成功し、日本全国の田舎で催されるアートイベントブームの先駆けになったといえる取り組み。過疎地のアートフェスでは廃校や廃屋が作品の展示会場として利用されることが往々にしてあり、板持集落再生プロジェクトが「廃村」を舞台としたのは、過疎地とアートの関係性をとらえるならば必然の流れと言えるのかもしれません。
けれど、廃校や廃屋が展示会場として利用されるのは、そこに都会から人を呼び込みたいという思惑が少なからずあるものですが、廃村の姿を提示するというこのプロジェクトの趣旨は、そうしたアートフェスの意義とは一線を画したところにあるはずなのです。

その決定的な違いの根本にあるのは、廃村には「未来」がないということ。
そして、すでに人口が43人と島全体が「限界集落」化している高見島の未来を暗示しているところに、怖さがあります。


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通常、書籍や映像の資料越しにその姿を目にすることはあっても冒険家や研究者やテレビ取材でもない限り、廃村に立ち入るようなことはできません。この廃村を歩いた僕の思索は、街中の博物館で再現したとしても感じ得ない体験でしょう。見るだけでなくその場にいないと感じられない「未来」。
歩けるまでに手を入れるのは相当苦労があっただろうけど、非常に価値のある仕事だと思います。プロジェクトの皆さん、お疲れさまでした。ありがとうございました。


桑沢デザイン研究所という専門学校の卒展(2/28-3/2)に行ってきました。会社の後輩が夜間部に通っているので、誘われたのです。

デザインスクールの卒展で僕が行ったことあるのは母校の筑波大と武蔵美で、これが3つめ。桑沢の卒展は専門学校だけあって、美大の卒展でわりとある「半径5メートルの世界」に引きこもったような作品は皆無で、全体的に訴えるパワーがきちんと備わっている印象でした。
特に、デザインが果たすべき役割と自分の感性へのこだわりをきちんと両立させた作品が多かったと感じました。マーケットのニーズに対する考慮はあまりなさそうだったけど、そんなのは卒業してからぶち当たればいい壁なのでしょう。学校で身につけるべきは、自分のポジションを獲得するみちすじであって、それこそが本質的なことなんだと思います。

作品はゼミごとにテーマを決めて制作され、まとめて展示されていました。おもしろいと思ったのは、あるゼミの「弱さのデザイン」というテーマの展示。経済成長と近代合理主義に沿って発展してきたインダストリアルデザインに対するアンチテーゼで、行き詰まっている日本の問題をデザインを通して学生に考えさせるようなテーマそのものが興味深かったし、それに応えて、例えば完璧でないものを見てほっとするあの感覚を呼び起こすような、包容力のある作品を制作してみせた学生たちを頼もしく思いました。ただしこの「弱さ」という概念は、ヤンキー文化圏が年を追って隆盛を見せる日本においては結局あまり流行らないのではとも思うわけですが。

ホールでは、ファッションデザインコースの作品を見せるショーも開催。出色の出来だったのは鈴木亜紀子さんの「kaleidoscope」。ボディラインの制約から放たれて自由に舞う万華鏡の世界観は、ファッションショーが提供すべき「非日常体験」に到達していたと思います。ほかに、マーケットニーズに対する嗅覚が優れているのは縁結びのデザインを採り入れた「縁」、飛び抜けたセンスを感じたのは原人と思しき(遠くてはっきりと見えなかった)イラストを全面に配した「起源」という作品でした。まぁこれは完全に僕の好みですけどね。

言葉に対する洞察力の鋭い芸人が好きだ。

代表格は松本人志。尊敬の域に入る。
若手ではピース又吉がいちばん気になっている。


松本人志で最も印象に残っているのは、かなり前になるけど、
「HEY! HEY! HEY!」のゲスト浜崎あゆみとのトークで、
彼が、曲名の「SEASONS」を「季節ら」と訳したシーン。

人のみに用いられる「ら」や「たち」の本来の用法を逸脱して、
「ふぞろいの林檎たち」のように有機物につけるレトリックは一般的。
「書物たち」のように無機物につけたのは大江健三郎が最初と言われる。
松本人志はさらに進んで、実体のないものに「ら」をつけた。

浜崎あゆみの曲のタイトルって、「WHATEVER」とか「Dearest」とか、
観念的過ぎて大河的というか、意味をあまり持たないものが多くて、
そこに「季節ら」という訳が提示されたことに、僕はとても驚いた。

「SEASONS」を意訳せよと言われたら、僕は「めぐる季節」と答える。
「季節」は、実体はないが観念的に存在するので、動詞を用いることができる。

けれど、松本人志が「季節」に「たち」や「ら」をつけたとき、
「実体を有するものとしての季節」という存在が想起される。
その違和感が笑いを誘うことを、彼は理解していたのだ。

MOTアニュアル2011 Nearest Faraway|世界の深さのはかり方

田窪恭治展 風景芸術


週末、東京都現代美術館で同時開催中の2つの企画展に行ってきました。
それがそれが、とてつもなく良くて、ホントにお勧めしたいのです。

2011/04/03 00:55:53
そうそう、今日行った東京都現代美術館の企画展2つともとんでもなく良かったんです!特にアニュアル展は、冨井大裕さんの作品、衣装ケースのタオル、スーパーボール、画鋲など、どれも素敵すぎてニヤニヤしてしまいました。池内晶子さんの作品、絹糸を吊った幻想的な部屋も、心が揺さぶられました。



詳しくご紹介しますと、まずは「MOTアニュアル」展(MOTは都現代美術館の通称)ですが、
シンプルな作風を共通点とした、次の6名の現代アーティストによるグループ展です。

池内晶子|椛田ちひろ|木藤純子|関根直子|冨井大裕|八木良太

展覧会概要には、
彼ら/彼女らの素材や技法の選択は意図的にシンプルでありながら、それによって生み出される作品の数々は、私たちを遠いところへはこんでいくような、広い射程をもっています。

とあります。

特にこの企画展の中で最も気に入った、冨井さんの作品では、
色鉛筆、折り紙、画鋲、ストロー、スポンジ、トンカチ、透明の衣装ケースなど、
きわめて身近な素材を、「え?そんなことに使うの?」という方法で用いています。

椛田さんの作品の部屋に入ると、天井から巨大な紫色の薄い布が吊らされていました。
説明を読むまで気づかないのですが、染めたものではなく、「油性ボールペン」で塗りつぶした作品です。
マジックペンではなく「ボールペン」です。油に起因するとみられる光沢はうっとりするほどです。

池内さんの作品の部屋は壮観でした。白い絹糸を部屋の四隅から張って、枝分かれさせ、
部屋の中央にかけて、まるで雲海のベッドか、白亜の宮殿のような空間を作り出していました。

この企画展で大事なのは作品の「質感」なので、
ウェブサイトの概要ページにある写真ではまったく伝わりません!
僕の心を揺さぶったミニマルでリアルな質感の芸術を、みんなに味わって欲しいです。


もうひとつは田窪恭治展。
フランスの礼拝堂再生プロジェクト、香川県の琴平山再生プロジェクトの
再現をメインに、美大在学中の活動も含めて主要作品を回顧する内容です。

知らない作家でしたが、こちらも良かったです。
琴平山の再現で、床に鋳物が敷き詰められていたのが、すごく心地よくて、
椿の花と葉の緑を描いた襖絵の前のシッティングスペースで心安らぐ時間を。
これだけで琴平山に観光に行きたくなってしまいました。
GWにひとりで行っちゃおうかな。誰か一緒に1泊で行ってくれる人募集!

この土日から恵比寿の写真美術館でスタートした展覧会「かがやきの瞬間」に行ってきました。

  「スナップショットの魅力」展

  ニュー・スナップショット


「スナップショット」の定義ってよくわかってなかったけど、

下準備その他特にせず、日常のできごとあるいは出会った光景を一瞬の下に撮影する写真。撮影される人物が身構えている写真スタジオでの撮影や記念撮影などに対し、日常の緊張が取れた姿(カメラを意識しない姿)から撮影される人物の自然さ(による魅力)を引き出し、記録するものである。(出典:Wikipedia)

とあります。風景写真もスナップショットに含まれるという認識はありませんでした。19世紀末に小型カメラが誕生してから、写真表現の中心はスナップショットが担ってきたということになります。


さて、この展覧会ですが、かなりよかったです。

収蔵作品展である「スナップショットの魅力」は、有名なフォトグラファーたちがブレイクするきっかけとなった作品を多数展示し、それこそスナップショットによる写真美術の歴史(1930年代以降)を振り返るような内容で、トレンドや表現手法がどのように変わりつつ受け継がれてきたのか、その概略が掴めるようになっています。初心者も写真好きも楽しめる内容。
特に、「RFK Funeral Train (ロバート・F・ケネディの葬式列車)」という作品は圧巻でした。そこにある同調性は圧倒的で恐ろしさすら感じますが、これを収めて写真集にしてしまう写真家って凄いです。

対する「ニュー・スナップショット」は、写美の展覧会シリーズ「日本の新進作家展」の第9弾。6人の参加作家のうち前半3人は、割とオーソドックスな写真を発表する方々で、後半3人はそれぞれ独特のアプローチで攻める方々。こちらの展示も、現在の日本の新進写真家たちの表現方法の拡がりをおおまかに掴めるようになっているのがよかったです。
ここで1名だけ推すとすれば、すでに亡くなられていますが、中村ハルコ氏の作品。イタリア・トスカーナ地方のある家族を撮影したこの作品を、ヨーロッパ信仰は持ち合わせていない僕はやや批判的に観たのですが、色鮮やかに家族の幸せを活き活きと写し取っていて、何でもない写真なのに、やけにインパクトがありました。

総じて期待以上。作品の凄さ以上に、表現論のトレンドの流れや大枠を掴める今回のような企画展のアイデアが素晴らしい。

来年2月6日まで続きますので、ぜひ!


今週末はまだ夏バテの病み上がりなので、ランニングは控えておこうと思う。

ふだんの週末には、その日の体調に合わせて、35~60分かけて走る。
距離は気にせず、時間を目安に走ることにしている。
ちなみに、走った道のりを計測すると、6.5~10.5kmくらいだ。


団地を抜けて、通っていた保育所や小学校(の跡地)、
足を伸ばして中学校をめぐるルートは、懐かしい気持ちに。
川沿いの道をずっと走って、調整池をぐるっと回って
戻るルートは、信号がとても少なくて、走りやすさ抜群。
陸橋を越えて駅の近くの整備された住宅地を抜け、
畑に囲まれた県立大の外周を回るルートは、景色がきれいだ。


これからの季節、真夏日になるような日はランニングを避けたほうが良い。
昨年の夏は武蔵野市周辺でひとり暮らしをしていたから、
早起きして、気温が上がる前に、というか出勤前に、
成蹊大学の外周や公務員団地の内外の、緑の多いルートを走っていた。

実家近辺では、景色の良いコースも走りやすいコースもなかなか見つからないなぁ。

アニメ「おおきく振りかぶって」の第2期も放送終了


http://www.oofuri.com/


原作は、ひぐちアサの高校野球コミック。
大学の先輩にっしーに薦められて買い始めた。

極度にオドオドしてるが抜群のコントロールを持つピッチャーと、
それを最大限に活かして配球を組み立てるクレバーなキャッチャーを
中心に、1年生だけの新設チームが懸命に頑張る姿を描く、
余りに青臭くて読んでるだけで恥ずかしくて悶えるほどの青春マンガ。



マンガにはマンガの文法みたいなものがあって、大概はアニメ化しても
スピード感がなくなったり、要素の多重化で人物のインパクトが薄れたりして
原作以上の表現作品にならないことが多いけど、
アニメ「おおきく振りかぶって」に関しては、さらにオモシロくなってる。
なぜかといえば、このマンガのある特殊性と関係していると思う。

それは、「心の声」(マンガでは雲の形のふきだしで表されるセリフ)。

登場人物の「心の声」がセリフに占める割合が大きくて、
対戦相手との駆け引きに重点を置いた展開がおもしろさの一つ。
同時に、例えば理想のプレイができない自分に対する焦りや苦悩、
チーム内の人間関係、尊敬、嫉妬なんかも、気持ちをしっかり描く。

これがアニメになると、それらの「心の声」が音声になることによって、
まず、キャラクターの個性が明確になる。
さらに、声に出さない「心の声」と声に出す「セリフ」のトーンに差をつけることで、
思いの全てを言い切らずにお互いの行動を尊重するような人間関係や、
逆に気持ちを巧く言葉にできないことがすれ違いを生んでいく様子、
それぞれのキャラクターの価値観の違いがチームとしての総体に組み込まれる
過程を、絶妙に描くことに成功している。


深夜アニメ「デュラララ!!」

http://www.durarara.com/


池袋を舞台に、非日常的な登場人物たちが巻き起こす事件。
自分から見える事実だけが真実じゃない。
周りの人たちも、それぞれの考えに基づいて行動していて、
奇想天外な結果を生み続けながら、この世界は絶妙なバランスで廻っている。

そんな風に人間関係を描く青春ファンタジー。



テレビ放送の中盤から見始めたのに、展開にぐいぐい引き込まれ、
次の放送が楽しみで仕方なくなっていた。
それぞれのキャラクターが、次にどう動くか?
そのタイミングが、どんな結果に繋がるのか?

そんな放送も、この週末に最終回を迎えた。おもしろかった!
序盤がどうなったのか気になるので、DVDを早く借りたい!



イメージしやすい実在の街にフォーカスして、
その街のアイコンを活かしつつ非現実的な要素を持ち込む
という設定は、のめりこみ易いという点はよいのだけれど、
街のイメージに頼りすぎた作品は、それに飲み込まれて失敗する。

この作品は池袋のステレオタイプなイメージである(と思う)
「カラーギャング」「若者の集団抗争」「垢抜けない街」といった要素のうち、
かったるさみたいなものは、ハイテンションな展開でうまく払拭しつつ、
安定感の無さをうまく利用して、先の読めない不安を煽り、
視聴者をドキドキさせ、ハラハラもさせることに成功している。

特に、自分の言動がひとり歩きして、望んでもいないのに
他人を傷つけてしまう苦悩を、すごく丁寧に描き出しているのは、
ソーシャルメディアと触れ合って生きる僕にとって意味があった。


コンテンツ制作は、二次産業だ。
それに対して、コンテンツ販売は、三次産業になる。
前者はアーティストが、後者は出版者やレコード会社などが担う。

ウェブで二次産業は、かなりオープンになった。
アマチュアのアーティストが作品をリリースできる機会を得た。

それと同様に、三次産業もこれからオープンになるだろう。
アマチュアのコーディネーターが、作品を評価したり批評したり、
あるいはそれを通じて二次産業のプロダクトに付加価値をつけたりする。



音楽、映画、アートといった芸術がおれは大好きだけど、
それをつくる人間になろうとは、あまり考えなかった。
手先が不器用、ということもあるけど、
自分の表現を自分で担いきれないと直感的に思うからだ。

一次創作は、その世界観を自分に担保しなければならない。
設定を固めて意味を明確にし、受け身の受け手に伝える。
その明確な世界観にぐいぐい引き込む作品が評価される。

けれどもおれは、ゼロから全部自分で作ることがベストだと思わない。
世界の誰かが発信した一次創作を素材に、それにコメントをつけることで、
二次創作は成立すると思う。

狭義の「二次創作」の代表格である同人誌のマーケットの状況は知らないが、
一般的には、二次創作は一次創作に比べて劣ると考えられている。
但し、それは独創性という点においてであり、
記号とか意味とか享楽とかを考えれば二次創作が優れていることも多い。
(親しみやすいキャラを用いた風刺、クラブDJなど)


コミックマーケット等、二次産業としての二次創作は開花した感があるが、
三次産業としての二次創作はまだ萌芽の時期だ。
そして、仮に自分が創作に関わる人間になるのであれば、
このカテゴリを目指すべきなのではないかと思っている。

出版者、レコード会社、映画制作会社がコンテンツをリリースし、
書店、CDショップ、配給会社・劇場がそれを陳列して展開し、
各メディアがそれを評価して選んだものをさらに展開する。
このコンテンツ3次産業の構造は、いま劇的に変わろうとしている。

世界の誰かが発信した一時創作を、
他の誰かに気軽に展開できるTwitterのリツイート。

Consumer Generated Mediaやソーシャルメディアのおかげで
一次創作が爆発的に増えたことで、二次創作の重要性が高まるはずだ。
何を展開させ、流通させるのを握るのは三次産業としての二次創作だからだ。
次世代コンテンツ産業のアイデアが、そこにある。
この分野ではGoogleもAmazonも磐石ではない。


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