BLOG by tdswordsworks

ACTIVATE MY MIND. Still Feb 4th 2004 -twitterに書ききれない雑感など-

2007年04月

6月入社者が被る不利益は次の3点。


?職に就いていると想定していた時期の職を失い、収支計画が狂う

?卒業後の"短期の空白"が制度によって想定されていない、保険や年金の問題

?業務習得の遅れ




入社が同期の他の人たちより2ヶ月あるいは3ヶ月遅れることは、
それが意図せざるものであったとしても、厳然たる事実です。




?について

募集要項には書いてなかったはずだし、
内定通知書には「4月1日よりのご入社が内定致しました」と
しっかり書いてあります。

でももういいんです。

入社月を知らされたのは12月。
この会社にとっては、3ヶ月"も"あるっていうことになるんでしょう。
成長するための環境としては、朝令暮改なんて望むところだ!




?について

これは未解決の問題です。人事企画部に問い合わせ中・・・。
まぁ年金は2ヶ月分だけ自分で払うことになるでしょう。




?について

なんだかんだ言っても実際いちばんイヤなのは、
他の同期に比べて成長が遅れることでしょ。




でも、新卒の新入社員の最初の人事査定は、1年後の4月らしいです。


つまり、それまでは遅れをとっていても構わないということ。



10ヶ月で13ヶ月分の成長を遂げることは、
無茶とまでは言えない範囲でしょう。



むしろ、人より1.3倍がんばる動機づけを与えられたと思えばいいのです。






待て。


年に1.3倍成長の会社に合わせて自分も1.3倍の成長が期待されてるとして、
さらにその標準の1.3倍だから、
今の自分から見たら約1.7倍の成長が必要・・・。


ま、まぁ、無茶な数字かどうかは置いといて、
努力しだいでなんとかならないわけはない・・・はず。


やるしかない。



アニメ映画「あらしのよるに」を見ました。


見ててすっごくハラハラ、そして赤面させられる映画でした。





ヤギとオオカミの禁断の友情。

こういった類のテーマを扱う物語って、
必ず主人公2人かあるいはその片方が死を遂げて終わりますよね?

ロミオとジュリエットみたいに。

でも、子ども向けアニメでそんな展開は許されません(笑)

かといって、「友達やーめた」と言って
オオカミがヤギを食い殺してしまったら、それこそ子ども向けじゃないし。


どんな結末に向かうのか、わからなかったのが、前半のおもしろさ。




それにしても、この二匹は会って話すたびに照れすぎ。

ボーイズラブかと思いました。

だってネタバレですが、命がけで激流に飛び込み、逃避行しちゃうんですよ?

まぁそれも子ども向けだと思えば、
必要以上に人物の感情を画面に表す理由もわかりますけど。




ヤギの声は成宮寛貴、オオカミの声は中村獅童です。


中村獅童はさすがにウマいです。

ヤギの前で自分のお腹がなったときの
「鳴るな鳴るな鳴るなよー!」というセリフがもうプロです。

というかオレそこで、メガネ外すほど泣いたんですけどね。


成宮は逆に、「プロっぽくない」トコロがよかったです。

彼の演技にはオーラはあるけど抑揚がないといつも思いますが、
この映画中で「マジメ系癒しキャラ」であるヤギにはぴったりでした。




後半の展開には多少がっかりなところもありましたが、
物語の随所に、実際の人間関係や社会生活に当てはめられるような
深読みできる問題性が埋め込まれている作品でした。


異文化との接触で初めてくだらないと気づく、世の中のルール。

でも、自分たちの考えが受け容れられないときは、逃げるだけじゃダメ。

想いを実現するには、想像以上の困難を乗り越えなきゃいけない。



見終わるとほんわかした気分になりますが
同時にいろんな示唆をくれる映画でした。


障害者の雇用、ユニクロが1位…2位マック、3位しまむら



ユニクロを運営するファーストリテイリング。

最近の商品開発や店舗展開を見ていても感じるけれど、
とても創造性のある会社だと思っていました。

規模以外の点でも、小売業界で異彩を放っていますよね。



厚生労働省の調査によると、
そのユニクロの障害者雇用率はなんと7.42%!


ただ単に生産性の向上しか考えないで経営していたら、
とても達成できる数字じゃありません。


もはや「足手まとい」なんかじゃなく立派な人材として障害者を捉え、
その欠点を補い能力を活かす体制が整っているということなんでしょう。



社名は「小売業界で一番になる」という意味なんでしょうか。

庶民に支持されるインフラとしての衣料サービスをめざしてますね。

ブログで「毎日が楽しい」って書いてるK君、いい会社に入ったなー。




大学の本部で、職員給与関係のアルバイトを1日だけやりました。


お昼に食堂に行くのはほんとうに久しぶりでした。

それにしても物価が安い・・・。
パン3つで350円なんて、丸ビルじゃ下手すれば倍くらいするぞ。



それで、けっこう友達に出くわしたんです。

進学したヤツが6人、
あと、大学の事務に就職した女の子1人です。


俺の姿を見るや驚きの顔を隠さずに
「どうした?なんでここにいるの?」と訊いてくるわけですよ。

あー、また説明しなきゃ、とちょっと面倒に思いながら、
   ・入社が6月であること
   ・バイトしながら遊んでること
と、いまオレが置かれている状況を、ポイントを絞って説明します。




それとは別に、しばらく会ってない人から
「新生活はどう?」という挨拶で始まるメールをもらうことも多いです。


このメールに返信するのもちょっと面倒です。





この説明をすることから話題が発展するならいいんですけど、
「じゃあ旅行とかいけるじゃん。有意義に使いなよ。」
で終わってしまう。会話が続かないんです。

この話の基本的な性質は、
オレが今まだはたらいていないことの「言い訳」でしかないので、
仕方ないっちゃ仕方ないですけど。




それでも、実はこの2ヶ月間の予定はほとんど埋まってきました。

MTGFでやり残したことをかたづけます。
研究資料と音楽資料を整理するのに多くの時間を使います。
5月の中旬に、1週間ほどドライブ旅行をするつもりです。

さて、この2ヶ月間、価値あるものにできそうな気がしてきました。




今日は入社前の臨時ガイダンスがありました。

コンテンツは、人事制度と研修の流れの説明。



人事企画部の社員さんにはまさに「質問攻め」でした宇宙人


僕らが6月入社に「振り分けられた」理由については、
いちおう、納得のいく回答は得られました。

というか、人事企画部が入社月の振り分けをどのように捉えているのか、
それがわかったので、「そういうことなら仕方ない」という感じですね。



うちの会社、制度に関して「そういうことなら仕方ない」が多いなー。

ベンチャーだから当然だし、むしろ改善に関わる余地がある点は、
チャンスがあるということなので、むしろワクワクしますけど。






研修担当から「PDCサイクル」ってやつに関して説明されました。

一般的には「PDCA」と言うことのほうが多いのかな。
ネットで調べるとビミョーに考え方が異なるみたいです。

615c4d0e.jpg

<Plan→Do→Check→Action>


「PDCA」では、Cが検証と改善策の提示
          Aが改善策の実施を意味するのに対して、

「PDC」では、2度目のPで改善策の提示
        次のDで改善策を実行する(と理解しました)。


つまり、「PDCA」のAは「PDC」の2度目のDと同じということですか。

なんか「PDC」のほうがスピード感がありますね。



ちなみに。

このブログのタイトル「セカンド・ブリーチ」とは、
「PDC」の2度目のDoのことを意味しているんです。


髪のブリーチ(脱色)って、初めてのときは普通、慎重にやりますよね。
(※オレはしたことないですけど)

2度目のブリーチなら、経験や反省を活かして大胆に実行できる。
だから、1度の失敗を恐れないで、2度目の成功を見据えて
いろいろチャレンジするぞ、という意味をこめたのです。


・・・・・・・だいぶわかりづらいけど。






「PDC」で思い出すのは、1年前のインテの会社説明会。
上原さん(採用マネージャー)の話。


「就活で最初はプラン・ドゥ・チェックを回せていたのが、
忙しくなってくるとチェックが消えて、プラン・ドゥ・プラン・ドゥ!
さらに忙しくなってくると、1日の予定は、
面接→筆記試験→説明会→面接→ES作成。
ドゥ・ドゥ・ドゥ・ドゥ・ドゥ!


就活がちょっと手詰まりだった時期に笑わせてくれた会社説明会。

あれで一気にインテに惹かれていったように記憶しています。


オレ、意外と単純なんです。





6月入社のメンバーで集まって懇親会をしました。

セッティングしてくれた清水君に感謝。



さて、6月入社に選ばれてしまったのはどんなヤツらなのか?

だいたいのメンバーに共通して言えるのは、

□ポジティブ
□自律性が高い
□よくしゃべる/しゃべるのが好き
□精神年齢が高い

といった要素でしょうか。


精神年齢が高い、と書きましたが、
実年齢も高いようです。

23人のうち男子は6人ですが、
オレ以外は、4人が24歳で、1人が25歳だということが判明。

男性メンバーに関しては、落ち着いてる人ばかり。
そいつらと対等に話が展開できる自分を顧みれば、
6月入社に選ばれたことにも妙に納得がいきますね。

ということはオレはフケてるんですね…。



下北沢に行ってきました。

ぶらりと歩くだけでもあんなにオモシロい街は、ないでしょ。

不規則的な路地に雑多なショップが立ち並んで、
均質化された郊外空間に慣らされた身としてはうらやましいほど、
いろんな文化を生み出している街だと思います。





でも、小田急線の地下化工事に併せて再開発計画が持ち上がっていて、
街のど真ん中にでっかい道路と駅前ロータリーが作られようとしています。


「防犯」などの名目で計画実行を主張する区に対して、
「文化的営みを守る」ことの価値を訴える反対派が、
「Save the 下北沢」という運動を展開しています。



下北沢で起こっていること



オレとしては、開発に反対ですね。
巨大資本がほとんど侵入せず、ここまで育ってきた街に、
今さら道路を作ってモータリゼーションの受け皿にして、
ビルが建って、街が変わってしまえば、
下北沢の魅力である文化的多様性をぶち壊すことになります。


ここのライブハウスや劇場で努力を積み、
いまや第一線で活躍しているミュージシャンや俳優もいっぱいいます。

開発は、その感性が育つ土壌をこの街から失わせるかもしれません。



周辺の渋滞を解消することは経済効果をもたらすけれども、
下北沢の文化的な営みだって、経済効果をもたらすはず。
ファッション・エンタメ・コンテンツ産業の発信地であるのは明白。
その気になれば街としての資本価値も数値化できるはず。

むしろ下北沢の価値はそういうものに還元されないところにある。
最近のオレのブログで繰り返し言ってきたような新しい価値観に対応する、
新たな価値基準が通用するなら、説得力のある反論ができるんだろうけど。


それにしても乱暴な計画が進行してるなーと思います。









今回はあまり時間もなかったんで、東口~南口だけを散策しました。



ビレバンで見つけたCDが良すぎて買っちゃいました。

DE DE MOUSEの「tide of stars」というアルバムがかなり良いです。
星空ミュージックとでもいいますか。

RAMRIDERは衝動買いでした。
収録曲がほとんどREMIXのアルバムを俺に買わせるのは、
シモキタ的、ビレバン的雰囲気演出のなせるワザですね。

エレクトロニカ・ヒップホップと呼んでいいのか、
Jemapurというミュージシャンのアルバムが気に入りました。
弱冠19歳というポップが信じられない世界観の構築っぷりです。
でもオレの肌に合わないラップが流れてくるのに違和感があって、
結局買いませんでした。







社会人になっても、
土日にぶらりと訪れたい街です。

片道1時間半は若干遠いですけど・・・。




最近ちょっと心配になることがあります。


社会人になったら、世の中のできごとについて深く考える時間って
確保できるのかなーと、思うようになりました。


時間はあるにはあるけれど、仕事で疲れてしまっていると、
どうしてもそういうことの優先順位が低くなっちゃうんじゃないかな。



ほんとは、そういうのもとても重要なことだと思います。

メディアを騒がすような大事件から、身の回りの小さなできごとまで、
とにかく社会を構成するいろんな要素に興味を持って、
そのできごとに自分なりの意味を見出す。

自分なりの意味を見出すことはつまり、
たとえ自分とは直接関係のないことでも、
あるいは社会的には何の価値のないようなことでも、
成長の材料となる「自分だけの価値」を作ることができるということです。






長崎市長が襲撃されて亡くなったことは、ほんとに残念です。



この事件について政治家やメディアは言及します。
「行政に対する暴力は許されない」
「選挙期間中に現職候補が死亡する異常事態」


一方で、事件発生直後に首相官邸が出した談話が
「市長の無事と原因解明を望む」というあまりにも簡素で
「主張」のない内容だったことに、批判が集まりました。

政治に携わる者には、政治家なりの事件への意味づけとして、
「テロに対する怒りと対決姿勢を明確に表現する」
ことが当然に期待されているのでしょう。


事件が起こった。
だからこの対応マニュアルに従って声明を出そう。

そういう流れ作業的な、「効率」追求の成果のような、
「意味付け」の入り込む余地のない執政が行われているのでしょう。




そんな受け身的なことをやっていても、ちっともおもしろくない。

事象に対して自分なりの意味を見出すことこそが、
人が生きる必然的な理由になるんじゃないでしょうか?

そうやって意味を与えることをしなければ、
世界のいろんなできごとは自分を素通りするだけ。
事件を知っていても、それは「無視」するのと同じことです。







長崎市長の棺が市庁舎へ運ばれるとき、
1000人の市民が沿道に立って見送ったと報道されています。


そのことにどんな意味を見出して、
自分の地図のどこに配置するか。

そんなことを繰り返すことで、意味の地図は詳しくなっていって、
自分の意味世界と現実の世界とが、リンクするようになるのだと思います。



市長の襲撃とオレの生活はゼンゼン関係がないけど、
それをつなげて考えることで、世界がどんどん拡がっていきます。

それから世界を「俯瞰」すれば、きっとエキサイティングなはずです。








たしか中学の国語の教科書に載っていたんだと思いますが、
定義上の貧困が実質的な生活苦に結びつかないことを論じた
「貧困というコンセプト。二重の剥奪」
という文章が、この本の中に収められています。

見田宗介著:現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来―

1996年発行の新書です。



この文章が含まれている「南の貧困/北の貧困」という章は、
南北問題の本質を見抜いています。


「南の貧困」「北の貧困」は、
中学生当時のオレにとってはまさに目からウロコが落ちるような内容で
それ以降、オレの問題意識に根付くようになりました。




■「南の貧困」について

「所得が一日一ドル以下」という定義上の「貧困」を撲滅するための、
貧しくても幸福な生活を破壊するような開発主義的な政策を批判しています。



ショッキングだったのは、1972年の途上国の食糧危機が、
実は60年代の過剰生産に対処するための穀物生産国の休耕が原因だった、
ということです。

「経済的にいえば、先進国の食料生産は人間の必要に応じるためのものでなく、市場の需要に動かされているということを示しているだけである。(中略)最も手ひどい飢えにさらされた犠牲者の生と死は、世界の総収穫量のわずか一%にもならない穀物に左右されるということになる。
このことは、飢餓が人間の手に負えない次元の問題ではなく、世界の経済体制の問題であることを物語っている。」
(p.91-92、スーザン・ジョージの著作からの引用)




■「北の貧困」について

まとめるとこういうことになると思います。


現代の情報消費社会の成員の条件:高度の物資とサービスへの依存

つまり、「原的な必要」よりもはるか上に
「必要最低限」のラインを作ってしまう社会であるということ。


ところが。現代の情報消費社会のシステムは、
さらに「必要から離陸した欲望」を「相関項」として存立の原理とする。

つまり、この社会の経済システムは、
人間に何が必要かということに対応するシステムではなく
情報消費社会が作り出す「需要」に対応するシステムであり
「必要」を設定しておきながら「必要」に対応する機能を持たない、
きわめて無責任なシステムである。


そこで。
情報消費社会のこの原理的矛盾を補完するのが「福祉」というシステム。

国家や時代によってその水準が上下するのは、
「福祉」という概念が文字通りの目的性を持たず
あくまでも二次的な「救済」「手当て」であり、
システムの矛盾を補うものとして「消極的な定義」しか与えられていないから。






ここまで論述でもかなり問題提起的ですが、
この著作の真髄はその先にありました。






この著作は次の4部構成になっています。


1 情報化/消費化社会の展開・・・自立システムの形成
2 環境の臨界/資源の臨界・・・・現代社会の「限界問題」?
3 南の貧困/北の貧困・・・・・・現代社会の「限界問題」?
4 情報化/消費会社会の転回・・・自立システムの透徹


明解な構成です。



1~3章で、「豊かさ」と「市場の限界」、
つまり現代社会の構造の利点と欠陥の両方を、
理論的、実証的に描ききった後に、
4章で、情報化/消費化をさらに進めることによる
社会問題の解決の可能性を示しています。

革命を起こさずに。できるだけ失うものが少なくなるように。

社会を前進させるための建設的な理論を築こうという
見田さんのポリシーがうかがえます。







■ 情報化/消費化は社会システムを転回させる?

最終章では、情報化/消費化が社会の持続的発展を導くという持論が
哲学の引用や経済学のグラフから、実証的に展開されます。





「<情報化>それ自体はむしろ、その一般的な可能性においてみれば、この事例の示唆しているように、現代の「消費社会」が、自然収奪的でなく他社会収奪的でないような仕方で、需要の無限空間を見出すことを、はじめて可能とする条件である。」
(p.148※下線は傍点の代わり)



1970年以降の世界全体のマテリアル消費量は年間平均2%弱の増加であり、これは、主として新興工業諸国における資源使用量の増加と、世界全体の人口の増加によるものである。もちろん総消費量が減らなければ地球環境は永続し得ないけれども、「この期間の大衆消費社会の地域的拡大を考慮に入れれば、「消費社会」が資源消費を減少しながら持続することも可能であることを示しているといっていいだろう。」
(p.149-150)



(環境危機の解決策は、環境破壊的でない生活様式を通して自分たちが今よりも幸せになるのだという洞察を人びとが分け持つことである、という考えは)「正しいけれども、洞察のベースとなる経験が人びとの内にないなら、この洞察を共有することは不可能である。このような積極的な確信の基礎となることのできる経験は、あるいはそのような経験のエッセンスとしての幸福の味覚のようなものは、狭義の「情報」のごときものとして測定されたり、伝達されたりすることのできないものである
(中略)測定し交換し換算しえないもの=<かけがえのないもの>への視力(を獲得する必要があるが、)<かけがえのないもの>という領域は、(広義の)<情報>というコンセプトの可能性の核心にあるものでありながら(狭義の)<情報>というコンセプトを越え出してしまう」
(p.163-165)





最後の引用部分の考え方は、
オレがこれまで「情報」とか「情報社会」というコンセプトに惹かれ、
「社会」や「都市」が情報空間に存在するそのあり方を考え、
卒論で文化資本論とデジタル・デバイドを結び付けようとした理由を
説明してくれたように思いました。


つまり、持続可能な社会を築くために地球上の構成員が
共有しなければならない価値観があるとして、
それを広める(<かけがえのないもの>に関する情報を伝達する)ことの、
情報の性質による困難さを、これまでも痛感することがあったからです。



具体的な例を考えれば、
たとえばNPOの支援を推進することの困難さ。
社会貢献に与する活動を支援する意義は、みんな頭で理解していながら
実際に行動に移すことができないでいます。なぜか?

それ以前に、GNPを減らしてでも環境保護に打って出る方がよいのか、
それとも現在の経済規模を維持できる範囲でそれを推進するべきか、
「社会」にとって利益があるのはどちらか。
そもそも私たちが利益を得るしわ寄せはどこへ行くのか。



複雑な問題だと思います。
もう少し勉強したい。




待て。
オレなにやってんだ?



なぜか29回秋のスポデーの「映像」見て、感動してるよ・・・。



なぜか当時オレが作った資料読んで感慨にふけってるよ・・・。




スポデーの将来を視野に入れた問題提起。
委員の笑顔を作るために考え抜いた委員会運営。

あのときのオレがどんなに真剣にスポデーに取り組んでいたか、
今ではもう実感がない。


けれど、あのミラクルは歴史上の事実だ。

委員長の成すべきことをしっかり理解して、
将来を展望しながら目の前の問題に臨み、
適切な手段を講じて対応できていたと思う。


ホント、オレのこれまでのベストワークだった。





後輩からも賛辞をもらったけど、
それ以上の成果と満足を仕事で出せるだろうか?

そんな風にちょっと不安になるけど、
あそこまでできたんだし、
今度はもっと優秀なメンバーがいるから大丈夫、
と自信を取りもどす。



全力でビジネスマンをやってやる!







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