毛利嘉孝先生の著書、「文化=政治」。
文化的なパフォーマンスが印象の強い、新しい政治活動、
あるいはもっと広く考えれば、文化と政治が一体のものとして存在する状態の
全世界同時多発的な拡がりについて書かれているテキストです。
例示されているのは、
1999年のWTOシアトル会議で起きた闘争
ノッティング・ヒル・カーニバル
「ストリートを取り返せ」運動(道路を占拠するデモ)
メキシコのサパティスタ(インターネットを駆使した政治デモ)
などでした。
「重要なのはフリーター層の中でも経済的にも文化的にも比較的恵まれた人びとがこうした新しい文化=政治運動を担っているという積極的な認識である。」
「だがその理解は、(中略)流動化している世界におけるある奇妙な、他者との複数形のアイデンティティの共有であり、未来の自分の階級的位置に対する漠然とした不安と危機感なのである。」
(p.186)
ひと昔前の社会運動が下火になったのはなぜか?
なぜ左翼エリートの啓蒙的な言説は「効かない」のか?
毛利さんが言うことをオレの言葉で解釈すればこうなる。
社会のスペクタクル化(情報/消費社会化)と
意識の個人化(社会の分節化)が進んだことによって、
他者に対する想像力を持つことが困難になり、
「連帯」がもはや死語になってしまったから。
左翼エリートによる「連帯」の呼びかけは、
ヒロイスティックで非現実的なものになってしまっている。
そんなことを書いてから、毛利さんは、
心的あるいは身体的と呼ばれる世界認識のあり方を要求する必要も
あるのではないかと述べている。
「私が最近の新しい文化=政治運動に期待しているのは、それがひとつのイデオロギーではなく、この身体的な反応によって動かされているからである。」
(p.200-201)
つまるところ最近のユニークな、お祭騒ぎ的な社会運動というのは、
文化を政治的活動に組み込むことで、
文化のもとに政治を取り戻そうとする運動なんだろうと思います。
文化と政治、僕らにはどちらも必要なわけで、
社会の向かうべき先を冷静に予見しようとすれば、
どうやら文化が政治を包摂する方向で進めていくのが適切な道筋なんでしょう。
ただし、現状では政治経済システムの中で文化が認識されているようです。
でも、たとえば巨大資本が市場を作って、
その枠の中で製品(消費財)を消費するように仕向けられているのが、
文化のあり方だというなら、あまりにもおもしろくないと思いませんか?
それと、システムに組み込まれない非消費的文化(ex.環境保護)にも
積極的な意味を見出すことは可能なのでしょうか。
これも21世紀の人類に課せられた重要な難題でしょう。
文化的なパフォーマンスが印象の強い、新しい政治活動、
あるいはもっと広く考えれば、文化と政治が一体のものとして存在する状態の
全世界同時多発的な拡がりについて書かれているテキストです。
例示されているのは、
1999年のWTOシアトル会議で起きた闘争
ノッティング・ヒル・カーニバル
「ストリートを取り返せ」運動(道路を占拠するデモ)
メキシコのサパティスタ(インターネットを駆使した政治デモ)
などでした。
「重要なのはフリーター層の中でも経済的にも文化的にも比較的恵まれた人びとがこうした新しい文化=政治運動を担っているという積極的な認識である。」
「だがその理解は、(中略)流動化している世界におけるある奇妙な、他者との複数形のアイデンティティの共有であり、未来の自分の階級的位置に対する漠然とした不安と危機感なのである。」
(p.186)
ひと昔前の社会運動が下火になったのはなぜか?
なぜ左翼エリートの啓蒙的な言説は「効かない」のか?
毛利さんが言うことをオレの言葉で解釈すればこうなる。
社会のスペクタクル化(情報/消費社会化)と
意識の個人化(社会の分節化)が進んだことによって、
他者に対する想像力を持つことが困難になり、
「連帯」がもはや死語になってしまったから。
左翼エリートによる「連帯」の呼びかけは、
ヒロイスティックで非現実的なものになってしまっている。
そんなことを書いてから、毛利さんは、
心的あるいは身体的と呼ばれる世界認識のあり方を要求する必要も
あるのではないかと述べている。
「私が最近の新しい文化=政治運動に期待しているのは、それがひとつのイデオロギーではなく、この身体的な反応によって動かされているからである。」
(p.200-201)
つまるところ最近のユニークな、お祭騒ぎ的な社会運動というのは、
文化を政治的活動に組み込むことで、
文化のもとに政治を取り戻そうとする運動なんだろうと思います。
文化と政治、僕らにはどちらも必要なわけで、
社会の向かうべき先を冷静に予見しようとすれば、
どうやら文化が政治を包摂する方向で進めていくのが適切な道筋なんでしょう。
ただし、現状では政治経済システムの中で文化が認識されているようです。
でも、たとえば巨大資本が市場を作って、
その枠の中で製品(消費財)を消費するように仕向けられているのが、
文化のあり方だというなら、あまりにもおもしろくないと思いませんか?
それと、システムに組み込まれない非消費的文化(ex.環境保護)にも
積極的な意味を見出すことは可能なのでしょうか。
これも21世紀の人類に課せられた重要な難題でしょう。