BLOG by tdswordsworks

ACTIVATE MY MIND. Still Feb 4th 2004 -twitterに書ききれない雑感など-

2008年09月

ということを最近考える。


読んでる新聞は日経だ。
親が読んでる毎日と並べて読むと、同じニュースの扱いの違いがおもしろい。

自分にとってどんな情報が重要なのか、
それによって読む新聞は変えるものだけど、

地方で起きた傷害事件の報道も、
異物混入も、大臣の辞任も、
トヨタの売上高も、第3のビールの販売競争も、
俺の生活に大きく関係するニュースって実はほとんどない。

最近では、前期高齢者医療制度の整備によって
健保組合に拠出する保険料が年間数千円上昇したことくらいか。
あと、衆院選や大統領選はさすがに根本を変えることなので重要だけど。



じゃあ、なんのために、ニュースを読んでるのか。
ひょっとしたら、これって娯楽なんじゃないか、とさえ思う。

勿論、一見して自分とは無関係なその話題が、自分やその周囲に
どういう影響を与えるのか、仮定して思考して出した推論をもとに
行動を起こす、あるいは意見を修正する、というのは重要だ。

けどそれって、ファッション誌を見て、
持っている服や靴や鞄と照らし合わせて何を買うか決めるのと、
何が違うというのだろう?


発信者の立場も目的も前提さえも異なる雑多な情報に日々触れる中で、
フィクションとノンフィクションの境が曖昧になっているように、
娯楽と必要の境さえ曖昧になっている、消費に溺れかけの自分がいる。


もっと効率的に、有用な情報を得られるように熟練してくれば、
消費を超えて、知的生産の材料にできるんだろうけど、

生産にほとんどつなげていない今の僕にとって、
ニュースは娯楽以上の価値を持たないと思う。

とは言え、劇場政治と言われたように政治さえ娯楽になるのだから、
娯楽が世論を決め、社会を動かすことだってある。でもそれは妥当なのか?

俺は、そこから脱したい。




観ました!



中島哲也監督作品

パコと魔法の絵本

コチラが公式サイト(重い)→http://www.paco-magic.com/index.html









まさかそういう映画だとは思ってなかったんだけど、



号泣しました(笑)




ニューメディア世代としては放っておけない映像は今作も冴えてて、
かなり楽しい映画になってます。でも、

ファンタジー映画だからって侮るなかれ。

この作品が観客に訴えるのは、
生活の中で氾濫する大量の情報を受容し、
それをあっという間に消費していく高度情報社会において、

他人の心に自分がいることがどれほど嬉しいことか

他人の役に立ったという実感がどれだけ貴重か

ということ。


主人公の大貫とパコの関係でそれを示した後、
元有名子役(妻夫木)とナース(土屋アンナ)のエピソードでそれをオーバーラップ
させられたときには、熱いものが凄いスピードでこみ上げてきました。





自分の話をすると、
俺はひとりで行動することがかなり多いタイプで、
映画も美術館も旅行もひとりで行ってしまう。

もちろん、その方が効率的に自分の好きなものにたくさん触れられるから
メリットもあるんだけど、やっぱりさみしいと思うこともあるわけで。

希薄な関係が多くなってしまう行動特性なので、逆に、
誰かに忘れられない存在になりたいという強迫観念もたぶん強いです。

だからこうやってブログを4年半も続けてたり、詩みたいなものも書いてみたり、
流行におもねらない独自のファッションスタイルを築こうとしてたり、
世間に提示できる新たな視点はないかと探求してたりするのかもしれません。




それはとても難しいけれど、希望もあると思っています。
この映画を観て、その楽観にも少しくらい裏付けはあるかなと思えました。






プラレールのパーツってこんなにたくさん種類があったんだぁ・・・

という発見。



トーキョーワンダーサイト渋谷

http://www.tokyo-ws.org/shibuya/index.html



渋谷で、30分時間が空いたら、
暇つぶしでいいから行ってみて。

鉄道のレールが芸術だって事、わかるから。




もともと写真を撮るのはケータイ派だった。


写真を撮るのがすごく好きで、
修学旅行では誰よりもたくさんフィルムを使っていたと思う。

初のカメラ付きケータイがJ-PHONEから発売されたとき、
まっさきにDoCoMoから乗り換えたし、
機種変更の優先基準はカメラの性能だった。

けれど、昨年末の機種変更では諸々の事情で「うすさ」を優先したため、
以前よりグレードダウンした機能にかなり不満を持っていた。


一方で、デジカメはすごい速さで軽量化・コンパクト化が進んでいて、
休日のお出かけでもカメラを持ち歩きたい俺のニーズに耐えうる
アイテムに成長したと判断。

ついに今年の7月に初めてデジカメを買って、写真を撮り溜めてきた。




カメラマンの父親いわく、俺には才能がない、らしいけど、
おかまいなしに、mixiにアップしている。

撮る対象は、都市の建造物、道路、鉄道のレールが多い。

まぁ、興味があれば、ぜひ見てくだされ。


mixiフォトアルバム




「12人の怒れる男」を見てきた。


映画は、おもしろかった。

160分と長尺だけど、メリハリが利いててほとんど飽きない。

審議の場面は全体的に静かだけど、誰かの発言に緊張が走る時と、
誰かがおどけたりズレた発言をして和ませる時のメリハリ。
被告の少年が登場する場面は、凄惨な戦闘のシーンと、
ナイフを持って踊るシーンのギャップ。

(ただ、周りの観客とオレの笑うタイミングが違うのがやや気になる)




観たのは日比谷の「シャンテ・シネ」。
不満に思うことが重なったので書かせて。

まず、前後の座席の高低差が少なすぎる。
オレの隣に座ってた人が前の人に2回も文句を言うほど。

それを聞いたオレも、配慮のつもりで、肩をかなり沈めて、
ちょっと腰が痛くなりそうなのをガマンして観てたのに。
上映終了後、オレの後ろの人が連れの友達に言ったこと。

「前の人の頭で字幕が見えなくて眠っちゃった」


どんだけ。

オレ身長165cmしかないんだけど・・・
オレより座高の高い人はゴマンと居るはず。
なのに、後ろの人に対してスクリーンの下部を隠してしまうなんて。



それだけじゃない。

映画館の構造上、上映前の出入りはエレベーターだけで、
2階で降りてすぐのところで係員にチケットを渡すようになっていた。
(チケット売場は1階の屋外)

オレがそれに気づかず、劇場に入るときに提示するものだと思って、
ロビーで他の映画のチラシなんかを集めていると、係員が寄ってきて、
チケットを渡したかと訊いてきた。
勘違いに気づいた俺がチケットを渡すと、
「何度か声をかけたんですが」と強い口調であからさまに非難し、
チケットを剥ぎ取るようにもぎ取って、突っ返してきた。

上映前で忙しいのはわかる。
けど何だよその態度。
百歩譲って、係員の声かけを聞き逃したオレに落ち度があったとしても
間違えた理由の弁明くらいさせて欲しかった。

逆にこっちが責めたい。上映前の数分間くらいは、
エレベーターが到着するときにはその降り口に係員を
張り付かせるくらいのことをなぜしないんだ。

そもそも、ロビーに入る前にチケットを係員にもぎらせる映画館は、
シネコンはもちろん、都内の小さな映画館でもほとんど見たことがない。
(覚えている限りでは、下高井戸にひとつだけある)

当然、ほかにもチケットを渡すタイミングに戸惑う客がいるのでは。
それがわかっているなら、対応は変わってくるんじゃないか?



なんだか凄くムカついた。

もうあそこには行かない。

シャンテ・シネだけでしか上映されない作品があったとしても、
DVDが出るまでガマンする。

もう、行きたくない。







遅くなったけど、
恒例・夏休みのひとり旅の写真をmixiにアップしました。


今年は、能登半島と金沢市街を巡る旅行。
このガソリン高の中、果敢にもクルマで行きました。
総走行距離は1200km。

普段のエコライフを台無しにしてしまったけど、たまにはこういう息抜きも必要だよね。




mixiフォトアルバム「2008.8 能登・金沢の旅」


能登の絶景から金沢市街のスナップショット、
俺の好きな「道」の写真、話題の金沢21世紀美術館まで。

全部で71枚。お暇があればぜひご覧ください。




ACROSS THE UNIVERSE



ビートルズの曲ばかり、33曲を現代風にアレンジして仕立てた
ミュージカル風の映画。

ザ・ビートルズ!
見終わったとき、興奮でそう叫びたくなるほど、
むちゃくちゃ気持ちよくて楽しい映画だった!



リバプール出身の造船労働者がアメリカに渡るストーリーや、
メインキャストの名前がジュードとルーシーだったりすることは、
ビートルズファンをにんまりさせるステキなオマージュ。


あの曲をここで使うか!
こんなアレンジの仕方があるのか!

そんなニクい演出ばかり。
サントラ買ってしもうたわ。


終盤、「Hey Jude」が流れたときは、
涙、溢れかけてました。

音楽って、人の心を動かすんです。
ジョンとポールは、天才でした。ほんとすごいや。




世間が期待する行動に自分の考えが反するとき、
行動によって異議申し立てをすることは簡単だ。

今までだってずっとそうしてきた。
自分が生きやすいように、そういう「キャラ」を作ってきた。




でも。
そのやり方が通用したのは、政治とか芸術とか経済とか福祉とか、
つまり「社会のこと」だけなのかもしれないと思った。


難しいのは、他人の個人的な問題に対峙させられたときのこと。


一般的に「不幸」と見られる事態に置かれている他人に対する
世間が期待する同情それ自体には、価値はないのだということを、
昔のテレビドラマの名ゼリフは教えてくれる。

同情は自然に生まれてくる感情であるべきで、
求められて差し出すものではないと思う。
(僕は24時間テレビがだいきらいだ)


周りの誰かが悲しい目に遭ったとき、相手が僕に求めているのは、
世間が期待する行動と同じとは限らない。
むしろ、違うことの方が多いはずだ。
そうでなければ、仲間や家族や友人なんて要らない。


だから僕は、その問題に対する自分の自然な反応に任せて行動する。
つまり、同情するときもあれば軽蔑するときもある。
それによって、相手が幸せを取りもどすきっかけを、
10回に1回でも与えることができれば、
それで充分なんだから。




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