たしか中学の国語の教科書に載っていたんだと思いますが、
定義上の貧困が実質的な生活苦に結びつかないことを論じた
「貧困というコンセプト。二重の剥奪」
という文章が、この本の中に収められています。

見田宗介著:現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来―

1996年発行の新書です。



この文章が含まれている「南の貧困/北の貧困」という章は、
南北問題の本質を見抜いています。


「南の貧困」「北の貧困」は、
中学生当時のオレにとってはまさに目からウロコが落ちるような内容で
それ以降、オレの問題意識に根付くようになりました。




■「南の貧困」について

「所得が一日一ドル以下」という定義上の「貧困」を撲滅するための、
貧しくても幸福な生活を破壊するような開発主義的な政策を批判しています。



ショッキングだったのは、1972年の途上国の食糧危機が、
実は60年代の過剰生産に対処するための穀物生産国の休耕が原因だった、
ということです。

「経済的にいえば、先進国の食料生産は人間の必要に応じるためのものでなく、市場の需要に動かされているということを示しているだけである。(中略)最も手ひどい飢えにさらされた犠牲者の生と死は、世界の総収穫量のわずか一%にもならない穀物に左右されるということになる。
このことは、飢餓が人間の手に負えない次元の問題ではなく、世界の経済体制の問題であることを物語っている。」
(p.91-92、スーザン・ジョージの著作からの引用)




■「北の貧困」について

まとめるとこういうことになると思います。


現代の情報消費社会の成員の条件:高度の物資とサービスへの依存

つまり、「原的な必要」よりもはるか上に
「必要最低限」のラインを作ってしまう社会であるということ。


ところが。現代の情報消費社会のシステムは、
さらに「必要から離陸した欲望」を「相関項」として存立の原理とする。

つまり、この社会の経済システムは、
人間に何が必要かということに対応するシステムではなく
情報消費社会が作り出す「需要」に対応するシステムであり
「必要」を設定しておきながら「必要」に対応する機能を持たない、
きわめて無責任なシステムである。


そこで。
情報消費社会のこの原理的矛盾を補完するのが「福祉」というシステム。

国家や時代によってその水準が上下するのは、
「福祉」という概念が文字通りの目的性を持たず
あくまでも二次的な「救済」「手当て」であり、
システムの矛盾を補うものとして「消極的な定義」しか与えられていないから。






ここまで論述でもかなり問題提起的ですが、
この著作の真髄はその先にありました。






この著作は次の4部構成になっています。


1 情報化/消費化社会の展開・・・自立システムの形成
2 環境の臨界/資源の臨界・・・・現代社会の「限界問題」?
3 南の貧困/北の貧困・・・・・・現代社会の「限界問題」?
4 情報化/消費会社会の転回・・・自立システムの透徹


明解な構成です。



1~3章で、「豊かさ」と「市場の限界」、
つまり現代社会の構造の利点と欠陥の両方を、
理論的、実証的に描ききった後に、
4章で、情報化/消費化をさらに進めることによる
社会問題の解決の可能性を示しています。

革命を起こさずに。できるだけ失うものが少なくなるように。

社会を前進させるための建設的な理論を築こうという
見田さんのポリシーがうかがえます。







■ 情報化/消費化は社会システムを転回させる?

最終章では、情報化/消費化が社会の持続的発展を導くという持論が
哲学の引用や経済学のグラフから、実証的に展開されます。





「<情報化>それ自体はむしろ、その一般的な可能性においてみれば、この事例の示唆しているように、現代の「消費社会」が、自然収奪的でなく他社会収奪的でないような仕方で、需要の無限空間を見出すことを、はじめて可能とする条件である。」
(p.148※下線は傍点の代わり)



1970年以降の世界全体のマテリアル消費量は年間平均2%弱の増加であり、これは、主として新興工業諸国における資源使用量の増加と、世界全体の人口の増加によるものである。もちろん総消費量が減らなければ地球環境は永続し得ないけれども、「この期間の大衆消費社会の地域的拡大を考慮に入れれば、「消費社会」が資源消費を減少しながら持続することも可能であることを示しているといっていいだろう。」
(p.149-150)



(環境危機の解決策は、環境破壊的でない生活様式を通して自分たちが今よりも幸せになるのだという洞察を人びとが分け持つことである、という考えは)「正しいけれども、洞察のベースとなる経験が人びとの内にないなら、この洞察を共有することは不可能である。このような積極的な確信の基礎となることのできる経験は、あるいはそのような経験のエッセンスとしての幸福の味覚のようなものは、狭義の「情報」のごときものとして測定されたり、伝達されたりすることのできないものである
(中略)測定し交換し換算しえないもの=<かけがえのないもの>への視力(を獲得する必要があるが、)<かけがえのないもの>という領域は、(広義の)<情報>というコンセプトの可能性の核心にあるものでありながら(狭義の)<情報>というコンセプトを越え出してしまう」
(p.163-165)





最後の引用部分の考え方は、
オレがこれまで「情報」とか「情報社会」というコンセプトに惹かれ、
「社会」や「都市」が情報空間に存在するそのあり方を考え、
卒論で文化資本論とデジタル・デバイドを結び付けようとした理由を
説明してくれたように思いました。


つまり、持続可能な社会を築くために地球上の構成員が
共有しなければならない価値観があるとして、
それを広める(<かけがえのないもの>に関する情報を伝達する)ことの、
情報の性質による困難さを、これまでも痛感することがあったからです。



具体的な例を考えれば、
たとえばNPOの支援を推進することの困難さ。
社会貢献に与する活動を支援する意義は、みんな頭で理解していながら
実際に行動に移すことができないでいます。なぜか?

それ以前に、GNPを減らしてでも環境保護に打って出る方がよいのか、
それとも現在の経済規模を維持できる範囲でそれを推進するべきか、
「社会」にとって利益があるのはどちらか。
そもそも私たちが利益を得るしわ寄せはどこへ行くのか。



複雑な問題だと思います。
もう少し勉強したい。