諸々の調査等によれば、同世代の人たちってあんまり冒険を好まないみたい。
ということを、以下、岸本裕紀子氏『なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?』を参考に書いていきたい。
早期退職を思い悩む同期に対して、「とりあえず一生懸命やれば結果が出るから、がんばれよ」という言説はもはや有効性を持たないのかもしれない。
キャリアや経験っていうのは目の前の課題に取り組むことの繰り返しだと、俺自身は強く信じているけれど、そういう問題解決に対して最近の企業は時間的な余裕をほとんど与えてくれない。
だから、全方位的な人材競争に晒されたとき、頼れるものは・・・何もない。
「食うに困らない程度の経済資産のある家庭に生まれれば、それなりに工夫をすることでそれなりにモノを手に入れることができる豊かな社会で、敢えて苦しい思いをして名を成さなくても充分な幸せがあるから、それを守ろうと若者は保守的になる。」という説明では充分ではない。
豊かさとハングリー精神の欠如 < 終身雇用システムが瓦解した状況下の不安
社会システムが歩んできた方向は長きに渡って一貫している。個人に対して自由度を与えると同時に責任を放棄するように段階的に改変されてきた。規制に守られる側へ行けるのはほんの一握りの人たちに限られてくるのだ。
将来に対する不安要素が増大するうちに、
成功するための競争は、安全な場所を得るための競争へと、
いつの間にか変わってきたんじゃないかと思う。
視点を変え、文化資本的に考えてみると、
「持つ人・持たざる人」というのは実は二分されるのではなく、3つに分かれる。
?有利な立場(文化資本)を持ち、さらに既存システムの恩恵に預かっている人たち
?有利な立場にはないが、既存システムの恩恵に預かっている人たち
?特に有利な立場を持たず既得権益も持たない人たち
文化資本的に優位に立てる絶対数と既得権益が同時に減少していくということは、上記の?の人たちが憂き目に遭うということ。ということは、機会の平等を確保する(機会を均(なら)していく)ための「規制緩和」の議論は、競争推進派と競争反対派の限定的な争いでしかない。
自らを守る既得権益も、成功するための有利な立場も持たない一般庶民には、関与されないところで機会の平等が進められている。
「今より良くなる(GETTING BETTER)こと」が保証されないとなると、
それなら「今を大切にして生きよう」ということになる。
きっとこれが、21世紀の価値観のコンセプトだ。
「若い人たちにとって、おばあちゃんたちは、好ましく、近しい存在である。
のんびりしていて、温かくて、自分なりのペースを守った
こぢんまりとした生活を楽しんでいる、まさに憧れのイメージだ。」
抹茶味が定番になってきた。若い僕らも京都が大スキだ。
花の都パリなんて視野に入らない。
手近で確かな、「今触れて間違いなく心地よいもの」がいいんだ。
定常社会のスタート期に育ったからなのかな、「変化しない良さ」を評価するんだ。
でもそういう僕らの感覚で最もマイナスだと思うのは、「ガマンできない」ことだと思う。
ガマンできないように若者を育てたのは、ケータイとコンビニだ。
ケータイとコンビニが若者の行動パターンを規定した。
行動が変わると、意識も変わる。
豊かさそれ自体は決して人を堕落させるものではないけれど、
たとえば深夜に突然アイスクリームが食べたくなっても、
ガマンできるかどうかが重要なんだと思う。
歩いて2分のところにコンビニがあれば、少し迷っても買いに行ってしまう。
そんな暮らしを続けていると、ガマンすることを忘れてしまうんだ。
今を大切にしたいから、大切な誰かと、
電話でもメールでもいいから、くだらないことでもいいから、話していたい。
それで確実に、幸せを感じていられる。
これは、成長を必要としない、定常社会にマッチした生き方だ。
俺には物足りないんだけれど、きっとこういう価値観がこれからの日本をつくっていくと思う。
一時的に日本の競争力は下がるだろうけど、長い視点で見つめていきたいと思う。
ということを、以下、岸本裕紀子氏『なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?』を参考に書いていきたい。
早期退職を思い悩む同期に対して、「とりあえず一生懸命やれば結果が出るから、がんばれよ」という言説はもはや有効性を持たないのかもしれない。
キャリアや経験っていうのは目の前の課題に取り組むことの繰り返しだと、俺自身は強く信じているけれど、そういう問題解決に対して最近の企業は時間的な余裕をほとんど与えてくれない。
だから、全方位的な人材競争に晒されたとき、頼れるものは・・・何もない。
「食うに困らない程度の経済資産のある家庭に生まれれば、それなりに工夫をすることでそれなりにモノを手に入れることができる豊かな社会で、敢えて苦しい思いをして名を成さなくても充分な幸せがあるから、それを守ろうと若者は保守的になる。」という説明では充分ではない。
豊かさとハングリー精神の欠如 < 終身雇用システムが瓦解した状況下の不安
社会システムが歩んできた方向は長きに渡って一貫している。個人に対して自由度を与えると同時に責任を放棄するように段階的に改変されてきた。規制に守られる側へ行けるのはほんの一握りの人たちに限られてくるのだ。
将来に対する不安要素が増大するうちに、
成功するための競争は、安全な場所を得るための競争へと、
いつの間にか変わってきたんじゃないかと思う。
視点を変え、文化資本的に考えてみると、
「持つ人・持たざる人」というのは実は二分されるのではなく、3つに分かれる。
?有利な立場(文化資本)を持ち、さらに既存システムの恩恵に預かっている人たち
?有利な立場にはないが、既存システムの恩恵に預かっている人たち
?特に有利な立場を持たず既得権益も持たない人たち
文化資本的に優位に立てる絶対数と既得権益が同時に減少していくということは、上記の?の人たちが憂き目に遭うということ。ということは、機会の平等を確保する(機会を均(なら)していく)ための「規制緩和」の議論は、競争推進派と競争反対派の限定的な争いでしかない。
自らを守る既得権益も、成功するための有利な立場も持たない一般庶民には、関与されないところで機会の平等が進められている。
「今より良くなる(GETTING BETTER)こと」が保証されないとなると、
それなら「今を大切にして生きよう」ということになる。
きっとこれが、21世紀の価値観のコンセプトだ。
「若い人たちにとって、おばあちゃんたちは、好ましく、近しい存在である。
のんびりしていて、温かくて、自分なりのペースを守った
こぢんまりとした生活を楽しんでいる、まさに憧れのイメージだ。」
抹茶味が定番になってきた。若い僕らも京都が大スキだ。
花の都パリなんて視野に入らない。
手近で確かな、「今触れて間違いなく心地よいもの」がいいんだ。
定常社会のスタート期に育ったからなのかな、「変化しない良さ」を評価するんだ。
でもそういう僕らの感覚で最もマイナスだと思うのは、「ガマンできない」ことだと思う。
ガマンできないように若者を育てたのは、ケータイとコンビニだ。
ケータイとコンビニが若者の行動パターンを規定した。
行動が変わると、意識も変わる。
豊かさそれ自体は決して人を堕落させるものではないけれど、
たとえば深夜に突然アイスクリームが食べたくなっても、
ガマンできるかどうかが重要なんだと思う。
歩いて2分のところにコンビニがあれば、少し迷っても買いに行ってしまう。
そんな暮らしを続けていると、ガマンすることを忘れてしまうんだ。
今を大切にしたいから、大切な誰かと、
電話でもメールでもいいから、くだらないことでもいいから、話していたい。
それで確実に、幸せを感じていられる。
これは、成長を必要としない、定常社会にマッチした生き方だ。
俺には物足りないんだけれど、きっとこういう価値観がこれからの日本をつくっていくと思う。
一時的に日本の競争力は下がるだろうけど、長い視点で見つめていきたいと思う。